まずこの映画は主演のミキ・マノイロヴィッチに価値があります。私は最初、ただ彼が主演しているというだけの理由で観たくなってそして観ました。
エミール・クストリッツァ映画の常連、「パパは、出張中!」と「アンダーグラウンド」です。特に「アンダーグラウンド」のマルコ役は、映画の出来映えと共に強烈な印象を残しまして、実際ちょっと虜になります。あの顔、あの立ち居振る舞い、そしてあの踊りです。
私は基本女優が好きで男はどうでもいいのですが、注目し尊敬し惚れ惚れするような俳優が何人かおります。その筆頭がこのミキ・マノイロヴィッチです。
ダリにちょっと似ていて、大泉滉にもちょっと似ていて、独特の風貌と力強い眼差し、そしてクストリッツァ映画ではじける超カッコいい踊りにもうメロメロ、このままではわしやばいぞっていうそれほどの魅力を感じている俳優です。
そのミキ・マノイロヴィッチが祖父の役です。老人です。でもただの老人じゃありません。若々しく力強い祖父です。政治的弾圧にあったり、散々苦労してきましたがそんなものに全く負けない男です。
さてそんなミキ・マノイロヴィッチがさわやかそうに自転車に乗っているポスターの「さあ帰ろう、ペダルをこいで」です。ハートウォーミングの香りがします。さわやか映画の香りもします。ですがそんなことを気にせず観ます。
蓋を開けてみれば、この映画はただのほんわかまろやかハートウォーミングとはひと味もふた味も違うよい映画ということが判明しました。
ミキ・マノイロヴィッチの魅力のほか、ストーリーの構成も凝っているし、それから避けて通れぬ政治的社会的背景が強く描かれまして、がっつり見応えがあります。
それに加えて今更の「人生をバックギャモンやサイコロに例える」みたいなネタをどどーんと据えたりします。失った記憶と共に、故郷を取り戻す旅、自分を取り戻す旅だったりします。この、臭さと紙一重の教育的ハートウォーミング、それでも全然臭くはありません。取り戻した自分と故郷は祖父を初め家族と共にあります。決して身勝手でアンニュイなふわふわした自分探しなんかではありません。青年は家族の愛情を、また故郷の暖かみを知る旅を果たすんですね、自転車に乗って。
故郷には制度的な多くの出来事もありました。権力者が変わり政治が変わり、激動を経てきました。超むかつく為政者がにこやかに偽の笑いを振りまいていても、青年が祖父と共に手にする故郷の姿は何も変わりません。
ちょっと話はそれますが国とは何でしょうか。
人が「国」と言うとき、それは何ですか。私にとってそれは山であり空であり季節であり街であり建物であり路であり家族や猫であります。食べ物であり空気であり水であります。お気に入りのお店であり気の置けない友人たちであります。そして言葉でありコミュニケーションであります。
国と言うとき、決して政権を担当している政党なんかを指しません。もちろん首相でも内閣でもありません。神様気分で制度を動かしている官僚組織やマスメディアでもありませんし、法律でも条令でもルールでも何でもありません。妬みとざまあみろで発狂した相互監視の全体主義集団でもありません。これらは単なる制度であり国とは何の関係もありません。
ですが一部一般では「国」と言うとき、政府や制度を指す場合が多くあります。「国に逆らうな」「国が決めたんだ」「国のルールだ」「国のためだ」「国がそう言ってるんだ」
このときの「国」は制度という意味です。私には全く意味のわからない宇宙人の言葉です。
私にとって国は制度ではなく故郷です。これを読んでいるあなたにとってもきっとそうだと思います。少なくとも「さあ帰ろう、ペダルをこいで」を観て感銘を受ける人はそうだと思います。
制度は時に大きく変化したり滅んだりもしますが故郷はただそこにあるだけです。
制度は人を酷い目に遭わせたりしますが故郷はただそこにあるだけです。
共産主義国家になったり民主主義国家になったり新奴隷主義的資本主義国家になったり、そのたびに人は翻弄され家族は引き裂かれ時と故郷を奪われたりします。ときどき命も奪われます。
自転車に乗って祖父と孫が帰る場所は、制度としての国ではなく故郷としての国です。国境が地続きであるところのブルガリアの地です。バックギャモンをやるあのお店です。
共産党のむかつく野郎がかつて座っていた席は店内にまだあります。今は民主的な制度となりましたが、それは平和なオチがついたというわけでなく、あの席にいた野郎はその悪徳と共に笑顔で次の制度の為政者となり民主主義のふりをふりまきます。制度をいじくる側の人間にとって、主義や思想、政党や政権の違いなど何ほどでもありません。そんなのは民衆をだまくらかす広告のネタにすぎません。そしてそんなものを「国」と認識することの愚かさは格別です。
「権威主義者」は権威になりたい人間だけでなく権威にひれ伏す人間も指します。権威主義者は「ルールが厭なら国から出て行け」とよく言いますが、ルールがおかしければルールを変えればいいのであって、そもそも故郷とルールには何の関係もありません。制度の奴隷と化してしまうと、このように意味不明の言葉を発したりしがちですが、この件はさすがに映画と何の関係もありませんので次行きます。
というわけで祖父と孫はそういった制度に関して何ら動じることなく、何があろうとお店に出向いてバックギャモンをやるわけです。これが自分を取り戻すということであり、故郷を取り戻すということです。
さてそういうことを感じさせてくれる力強く優しい本作、いろいろと気に入った細部もあります。
まず映画全体の流れです。構成が技術的に凝っていまして、主にふたつのパートで成り立ちます。ひとつは交通事故に遭い記憶をなくした孫の青年と祖父の物語、もうひとつは孫がまだちびっ子の頃の物語です。
節々に挟まれる過去の物語が結構波乱に富んでいてのめり込ませてくれます。その挟み方もタイミング的に凝ってるし、ある時期以降の「描かれない出来事」の描き方も凝ってます。空白の時期があることによって、現代の祖父と孫の物語に深みを加える効果をもたらします。構成、とてもいいです。
もっと細部いきます。
そもそもミキ・マノイロヴィッチが一番の目的だったからこその最高のシーンがあります。そうですそうです、「アンダーグラウンド」を観た人なら一発で大興奮間違いなしの、あのシーンです。何、あのシーンではわからんか。観た人ならわかりますか。あのシーンで映画部は一瞬にして大興奮の痰壺もとい坩堝につつまれ、立ち上がって思わず一緒に踊り出すわけです。ジプシー音楽に乗って、身も心も持っていかれてしまうのであります。歓声あげまくりなのであります。
しかしそれにしても、それほどまでにミキ・マノイロヴィッチのファンとは、わしちょっとヤバいあるか。
もうちょっと細部いきます。
そのビーチで孫青年が出会う素敵な女性がいます。この女性のおっぱいもといこの女性の笑顔が素敵で、思わず「前に会ったよね」と言いたくなりますが、そうじゃなく、確かに前にあってました。それは「ソウル・キッチン」のあのかわいい整体師でしたー\(^O^)/
ハンガリー出身の庶民顔美女ドルカ・グリルシュは72年生まれですからずいぶん若く見えますね。「ソウル・キッチン」は「さあ帰ろう、ペダルをこいで」の翌年の映画です。日本で紹介された順が変なので混乱してしまいそうになりますが、それにしても素敵なお(略)
いろんな呼び名で呼ばれる孫の青年を演じたのはカルロ・リューベックという方でして、この人もいい感じの俳優でしたね。時に鬱陶しそうな感じ、時に素直な感じ、しっかり大人でまだ子供っぽいところもあって、この彼も笑顔がいいのでして、いや、そもそも笑顔というものは誰であってもいいものです。そしてこの映画はまったくもって笑顔がよく似合う映画なのです。
映画の中で祖父は孫の仕事を理解できず、つまらないことをやっていると言いますが、いえいえおじいちゃん、とても賢い翻訳の仕事をされてますよ。
それからどうしてもこの登場人物に言及しておきたいそれは「シカゴと呼ばれた男」です。あだ名というか自称「シカゴ」という、アメリカに行きたいあの男です。
この男の顛末は耐えられないほど心を動かされます。いろんなものが彼の言葉に集約されてたりします。しかもそこにはシカゴならではのすっとぼけて間抜けな面白さも同時に内包しています。
ぜひ、シカゴに注目してください。
ベタな臭さの危なっかしい演出もたくさんあります。でもそんなことはすべて笑顔で許せます。
美しい景色に見とれましょう。自転車に乗って旅する祖父と孫を見ましょう。両親の苦しみを想像しましょう。祖父の体験を想像しましょう。制度を実感しましょう。
壁が崩壊した前後に何が起こったのか、もう一度冷静に考えてみましょう。
この映画を観ると自転車に乗って山越えサイクリングに行きたくなります。行きませんけど。しんどいので。
ミキ・マノイロヴィッチだからして贔屓目に見ていますが、それでも尚いい映画ですときっぱり言っときます。いい映画が観たい方にはもれなくお勧めします。
故郷も制度も込み込みで国なんだよね。概念的にそう簡単に割り切れるものでもない。現在のEUにおける移民問題は概念では解決出来てない(というか出来ない)現実の問題だし。