少女ヘジャル

Büyük adam küçük ask
悲惨な目に遭って生き延びたちびっ子クルド人少女ヘジャルと、妻を亡くした老人がひょんなことから出会います。社会的背景を持つちびっ子と老人の映画です。ちびっ子と老人映画にめっぽう弱いMovieBooです。これは来ました。これはぐっと来ましたよ。たまらん。これはもうたまらん。これべた褒め。
少女ヘジャル

お話は単純明快にしてオーソドックスです。背中に悲劇を背負ったピュアで頑固なちびっ子ヘジャルと、妻を亡くして孤独な頑固老人の人と人の繋がりの物語です。もはや神話のレベルと言っていいほどの、大筋では予想通りの典型のお話です。出会い、違和感、親密、と、そういう風に進行します。

もはや神話のレベルにまで典型化した物語にはありきたりとか陳腐とかのネガティブな言葉はまったく必要ありません。同じオーソドックスでも、単なるオーソドックスとずっしり手応えのある力のこもったオーソドックスではもう意味が全然違います。映画の出来映えも違います。何も説明せぬまま失礼ながら、とりあえず大絶賛のべた褒め表明を先にしておきます。みなさん、これ是非観てください。どなたさまにも強くおすすめ。

と、感情のままべた褒めしたところで、どういうところが大好物のツボなのか書きますが、だいたいもうパターンが決まってまして「またか」とお思いのあなたの顔もちょっと浮かびますが我慢してください。

ちびっ子クルド人です。クルド人とは何か。知らない人いますか?国を持たない民族ですね。そのため、各国で差別的な扱いも受けてきました。
トルコではクルド人の存在そのものを認めないという政策もあったそうで、言葉も奪われていました。言葉を奪われることは是即ちアイデンティティを奪われることです。映画の中でクルド語に関してのテーマが強く印象に残りますが、クルド語を話してはならないという国策があったことを押さえておきましょう。

ちびっ子と老人のふれあい映画として紹介していますが本当のことを言うと、この二人のふれあい物語に包まれたその実ぶりぶりの社会派映画です。でもその点に関しては監督インタビューなどで語られていることを尊重して本稿ではちびっ子と老人の映画という範疇でべた褒めしています。

もうひとりのクルド人が登場します。主人公老人が雇っているメイドです。この人がまたとてもいい人で。だからクルド人少女ヘジャルは最初このメイドと仲良しになります。とてもよい登場人物です。この人、ほんとにいい人ですよ。と、映画の中の人に必要以上に感情移入して思い出すだけで胸が熱くなる筆者でございます。

保守的な老人がだんだんヘジャルを可愛がっていくというストーリーの中で、この可愛がり方が半端じゃないんですよ。もうたまらないんです。どうたまらないかというと、ああもうそんなこと書けません。もう説明放棄。

いつもいつも書きますが、知的な人を好みます。映画の登場人物でこの賢さや知性がとことん大事です。「少女ヘジャル」には、登場人物たちの知性と優しさ、それからもう一つ大事な礼儀正しさ、こういったものが完璧なレベルで存在します。主人公老人、もうひとりの老人、その家族、メイド、それからお隣の未亡人からレストランのウェイターにいたるまで、すべての人が備えている知性と礼儀ただしさにもうメロメロです。知性と礼儀ただしさとは即ち他者への思いやりです。他者への思いやりとは是即ち想像力でして、想像力はそうです、知性の証明です。

決して理想的とは言えない社会の中で、人間たちのこのような姿を描く映画の如何に素晴らしいことか。特に老人二人の紳士的振る舞いには大きく心動かされました。人生に師匠がいるとすれば、それは礼儀正しい知性的な老人です。この映画ではそんな老人に出会えます。

さていよいよヘジャルです。このヘジャル役の子がですね、ぶすーっと不機嫌な顔してて、ぷくっと膨れたふくよかな顔で、パッと見て「まぁっ天使のような子ねっ」というような、そういうベビー用品のモデルのような子じゃありません。そういう可愛さじゃありません。絡みついて毛ジラミがいる髪、破れたセーターです。ものすごく失礼な例えを言うならば、雨の日に橋の下に棄てられた病気の子猫です。可愛がろうと近寄っても睨みつけたり引っ掻いたりしてきます。ところがこういう猫を連れて帰って家で飼って心が通じるようになってくると、どうあがいても世界一可愛く思えて止まりません。「うちの子が世界一だから」と、誇張じゃなく本当にそう思います。そういう可愛さです。

そんなわけでヘジャルの可愛さは宇宙のレベルです。ぽくぽくと歩く姿を観てるだけで自然ににんまりにやけてきます。にんまりしているのに涙がつーと流れるという、そんな状態です。

老人好きはともかくとして、ちびっ子映画を褒めすぎてもしかしてわしロリコンの変態と思われてる?大丈夫かな。心配ですが気にせず次行きます。

この映画を撮ったのは女流監督ですって。女性だからこうだとかああだとか、あまりそういう話はしたくないのではありますが、でも実際の話、こういう心のこもったちびっ子・老人映画で、細やかな演出に光るものがあるのって女流監督ならではだと思わないでおれません。ええそうなんです。細かいシーン、わずかな会話シーン、ちょっとした仕草、些細なものの表現、服や小物、それらすべてにきめの細かさを見て取れます。

ぜんぶ、フィデルのせい」を思い出しました。あれも不機嫌な少女の映画で、女流監督でしたね。

「少女ヘジャル」はパーフェクトな映画ですが、ほんのちょっぴり残念なところを挙げるとすれば、音楽です。いや、いい音楽なんですよ。すごくいい曲なんですが、でも映画の中で曲の数が少なすぎて、特に序盤に「またこの曲か…」と思ってしまうほど同じ曲が鳴ります。序盤ですからまだあまり感情移入していない段階で悲しい曲を繰り返されるとちょっと醒めます。
いやまあこんな話はどうでもいいですけど。ほんとにどうでもいい些細な点です。お気になさいませんよう。

しかしこれほどのいい映画を公開時に全く知らなかったとは不覚。というかほとんどの映画の情報を知らないわけなんですけどね。仕事帰りに毎日映画館に寄っていた頃は劇場のポスターで映画を知りましたが、そういうことをしなくなるとほんとに何も知らない状況が続きます。

というわけでヘジャルはおろか、老人たち、おばさんたち、みんなにめろめろになって最後は涙で霞んで字が読めないレベルで、見終わってすぐ「もう一度観たい」と思ったりして、それから公開翌年に老人役のシュクラン・ギュンギョルが亡くなったと知ってまた涙して、そんでもってDVDのオマケのディラン・エルチェティン(ヘジャル役)の可愛い姿を見てにんまりしながらアホのように佇むのでありました。

監督のインタビューがありましたので、サイドメニューに参考リンク置いときました。MovieBooのアホみたいな感想文と違って興味深い話をされてるので是非お読みください。

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