ついこないだ「ルルドの泉で」を世に出したジェシカ・ハウスナーです。高い完成度と観る者を引き込む力を持った映画で、才能ある女流監督の長編三作目でした。では話題となったこの方のデビュー作「ラブリー・リタ」はどやねん。と思わずにおられましょうか。
ふむふむ「ラブリー・リタ」ってのは大人と子供のどちらでもない微妙な年頃の少女を描いた映画ですか、そうですか、女流監督のデビュー作品らしいテーマですね、そういえば「ルルドの泉で」の主人公女性の心の表現力はずば抜けておりましたな、あの感じを垣間見せてくれるんじゃないかな、よし観ようすぐ観よう今観よう。
というわけで観ました。どれどれ。
ずががーん。
いえ、なんでもありません。ちょっと取り乱しました。
えーと。「ラブリー・リタ」は2001年の作品ですからもう10年以上前になるんですね。10年前にはこの映画のことなど何も知りません。先日「ルルド」ではじめて知って覚えた監督であります。ものごとを知らないとは何て素敵なんでしょう。初めて知る喜びをいつでも味わえますよ。
世界一容赦がなくて世界一観るものを落ち込ませくれて世界一すごい映画を作る男、ミヒャエル・ハネケに学んだジェシカ・ハウスナーです。やけにハネケハネケと言われてると思ったら、まああなた、なんですかこの「ラブリー・リタ」は。これがデビュー作で、そんでもって三作目が「ルルドの泉で」ですか。才能は進むよどこまでも。二作目の「Hotel」ってのも気になりますね。確かにこのデビュー作には師匠ハネケの影響がちらつきます。いろんな意味で。
情緒不安定な思春期少女の行動を描きます。退屈で退屈で死にそうよと思っていそうな不機嫌と苛立ちを描きます。
ぜんぜんまともにこなしさえできていないのにルーティンの埋没感に落ち込み、まだハマりきってもいないのに抜け出せないと強く感じています。落ちていない落とし穴に落ちてもがいています。叫んでもわめいても誰にも助けることが出来ません。落ちていないわけだしそもそも叫んでもわめいてもいません。叫んでいるのは胸の奥底だけです。本人にすら自覚がありません。それが青春だっ。どろどろの若さだっ。
というわけで、そんな多感で無表情な少女をただひたすら淡々と映し出します。
この少女の心が垣間見える人、感情移入できる人、この不機嫌と無邪気さに身に覚えがある人、そういう人にとって「ラブリー・リタ」の淡泊な描写はずんずんと胸に迫り来るでしょう。
「なんだこの少女は意味わからん」と、心の中に猛獣を飼っている思春期少女の心理を微塵も想像できないようなおっさんにとっては何やら退屈な映画だなと思えるかもしれません。または、師匠ハネケの映画が嫌いな人なんかも駄目でしょう。幸い私は心が少女のおっさんなので、始終胸騒ぎと不穏感に苛まれながらどっぷりと堪能することが出来ました。
ユングというおじさんは偶然に共時性という言葉を付けて知的遊戯にふけりましたが、私個人の体験としてほんのふたつ前に観た映画[1. ふたつ前に観た映画は「アリゾナ・ドリーム」]の中で出てくる言葉が「ラブリー・リタ」の強烈な伏線になっていて、まるで繋がった映画かのごとく染み込みました。偶然に続けて観たことによる忍法連結の技を発動してしまったのです。数年後、必ずやこの映画とあの映画の記憶がごっちゃになってしまうことでしょう。というか「ラブリー・リタ」を観た直後にすでにごっちゃになってしまっておりました。まるでこの映画の中で語られた言葉のような気がしたのですよ。
それがどういう言葉なのかはここでは申しませんが、別の場所で申してしまうかもしれません。「ラブリー・リタ」をこれから観ようとする人はそういう情報は避けるほうがよいでしょう。
というわけで奥歯に物が挟まったような表現のまま続けます。
ここまで読んで、まるで少女の心理描写をテーマとする映画であるような誤解を与えたとすれば私のミスです。この映画が描く重要な部分は、思春期少女の心理ではなく、彼女の行動そのものとその結果であります。
「ラブリー・リタ」がラブリーなのは、少女少女した心理描写があるからはなく、それを直接描かずに行動と出来事をその構成力で見せつけるからです。ここが師匠譲りの部分だと思うのですが、画面から得られる情報は単なる出来事だけなんですよ。
だから撮ってるほうは冷静です。行動を追う。出来事が起こる。反復する。今度はこうなる。カット事の時間割りや、細かな行動、細部の描写といった映像表現の技術的な部分が結果として観るものに心理表現として突き刺さります。だからこれ、とてもクールな映画なんです。
女流監督が撮った少女の映画と聞いて「女性っぽい繊細な心理描写の少女漫画のような映画」と思っていると大火傷を食らいますよ。