フランスにおけるホロコーストです。
パリの真ん中でこのようなことが起きていたとは知らぬ人も多いかもしれません。フランスらしいというかなんというか、ユダヤ人たちが隔離された競輪場は現在跡形もなく、歴史は忘却の彼方です。映画の中で若い編集者がこの件を知らなかった表現もあることから、この歴史の汚点についての告発的な意味合いもあるかもしれません。
「サラの鍵」は多重の構成がされています。
まず1942年の少女サラの物語です。
弟とじゃれ合っている冒頭の直後、フランス当局による一斉検挙が始まります。サラは咄嗟に危険を察知して弟を納戸に隠し水を持たせ「すぐ戻るからじっとして隠れてなさい」と命じます。不安げな弟の顔が、サラとそして観客の脳裏に焼き付きます。
すぐに戻れるという希望は打ち砕かれ、家族は一旦競輪場に詰め込まれた後、収容所に送られます。弟を心配のあまり少女サラは納戸の鍵を握りしめて脱走を決意するという展開となります。
そして唐突に現代です。60年前にサラの家族が住んでいた同じアパートの同じ一室に、今まさに引っ越してこようとしている女性ジャーナリストのジュリアの物語です。
このアパートは夫の両親、祖父母の時代からの持ち物で、フランスのホロコーストを調査しているジュリアは夫の家族がアパートを手に入れた経緯に興味を持ちます。そして、夫の家族が手に入れる直前にそこに住んでいたサラの家族の存在を知ることになります。サラのことを知り、調査にのめり込みます。
この二つの物語が交差して描かれます。サラの身の上と、サラのアパートを手に入れた夫の家族との関わりに不信感を持つジュリアです。
サラの物語は悲壮で辛いホロコーストの、ジュリアの物語は事件の顛末と自分たちとの関わりに関するミステリアスな展開となります。
じつはこの二つの物語だけでは済まないという点が「サラの鍵」を高次元へと引き上げています。
普通に考えれば、サラの物語とジュリアの物語の接点がクライマックスで明らかになり、二つの物語が一つの結末へと終息すると誰しも予想するでしょう。ところがどっこい。その先がまだあるんです。
収容所からの脱走を目論む少女サラのその後と、夫の家族がアパートをどのように手に入れたかというポイントは予想通り一点へと終息しますが、さらなる「その後」の展開がこれまた大きく、新たな多重構成の物語が展開していくんですね。このあたりは詳しくは申しません、是非映画をごらんください。
そんなわけで二重構造+二重構造の、かなり見応えある作品です。この物語、タチアナ・ド・ロネによる世界的なベストセラー小説が原作で、どうぞ安心してください。完全なるフィクションです。サラは実在しません。いたら辛すぎます。でも事件は事実です。実際のあの事件のことを調べると、ジュリアじゃなくても激しく落ち込みます。
突然ですが、「サラの鍵」はとても良い映画だと思います。どういう意味で良いかというと、とてもドラマチックで親切な演出と構成ですので、どなたにもおすすめできるという点です。いわゆる映画通やその筋の人だけが観るような小難しいタイプの映画ではなく、普通にドラマチックです。
話の中で、定番というか王道というか、ありがちなというか、そういう展開やシーンもたくさんあります。しかしそういったベタなシーンが、何かとてもいいんですよ。これ、微妙すぎて上手く説明できないのですが、普通っぽい展開と演出の中にぐっと来るものがあるんですね。何でしょう。この効果はなんでしょう。一見して判る異化効果とは異なる、絶妙な演出の力が秘められていると思います。構成力も優れています。そういった技術力が感動を導いているのは間違いありません。
演出力、構成力だけではなく、もちろん役者の演技力も重要です。これは一見して誰もが呻るほどの完成度です。登場する役者は皆すごいです。
後で思い返すと「ベタなシーンだったなあ」と思えるシークエンスで、涙がどろどろと流れ落ちたりしたのも、役者さんの力が大きいなあと思った次第です。
特にラストシーンは酷かった。ラストのあの一言で、それまで比較的おとなしめだった涙腺小僧が突発的に暴れ出し感情よりも先に涙があふれ出てしまってどうしようもなくなったのでございます。
というわけで役者さんについて書きます。誰が役者であろうと映画にのめり込む人にとってはどうでもいいことです。役者や演出家などに注目するのはマニアの悪い癖と言われがちです。でも仕方ないです。書きます。
ジュリアです。60年前の事件を追う中でサラに感情移入していき、自らの生き方にさえ影響を受け始めるという、そういう過程を実に上手に表現しています。狙いすぎた感じや無理矢理な感じは全くなく、きわめて自然です。二重構造の後半には特に多様な感情を表現できます。ラストでいちころです。
ジュリアを演じたクリスティン・スコット・トーマスは「イングリッシュ・ペイシェント」や「ブーリン家の姉妹」などで評価が高いですね。どちらも未見で知りませんけど。
で、サラです。この子、どうですか。どう思いますか、サラ。もうね、きつすぎます。たまりませんです。ちびっ子映画ファンでなくても強烈なはずです。壮絶演技力。天才子役。
サラを演じたのはメリュジーヌ・マヤンスです。綴りは Mélusine Mayance です。「サラの鍵」のキャスティングについて、監督は堂々と語っているそうです。「Ricky」を観て感嘆したからこの子を是非使いたいと。
そうですそうです。「Ricky リッキー」のリザです。Movie Booでもこの子を絶賛しています。「サラの鍵」でサラに大注目したあなたは、もしまだ未見なら是非とも「Ricky リッキー」もご覧になってください。
いやほんと凄いす。
他の役者さんもとてもよろしいです。特にあの優しい老夫婦、ニエル・アレストリュプとドミニク・フロが演じてますが、もう味わい良すぎです。ニエル・アレストリュプはどこかで観た人だなあと思っていたら「潜水服は蝶の夢を見る」のお父さんじゃありませんか。へえ。
息子役のエイダン・クインも一見場違いなキャラに見えますがラストにとても良い演技をしておられました。まあみんないい感じです。みんないい感じと思うのも、演出の良さとの相乗効果なのでしょうね。
セリフもほとんどなく、少ない出番ながら強烈な印象を残すあの女性ですが、あの人は誰でしょう。あっ。この人ですね。シャーロット・ポートレルです。サイドバー→に公式サイトへのリンクつけときました。独特系美女ですね。後で知りましたが「美しき運命の傷跡」に、モデル2の端役で出ていたようです。へえ。
というわけで何やら絶賛しておりますが、気に入らない箇所もいくつかあります。ベタな演出をぎりぎりの絶妙さで昇華させた本作ですが、昇華しきれていないベタさも一部あります。たとえばダンスホールのシーンとかです。まあ、でもそんなことは些細な問題なので批判する気はありません。全然OKです。
歴史は切り離すものじゃなく、普通に連続しています。今いる私たちは歴史の中の人物から継続している存在ですよね。また、人はある瞬間やある一面だけの存在ではなく、やっぱり継続した存在です。一過性の正義や道徳観に囚われていてはなりません。その正義や道徳観はいつの時代のいつ流行した正義や道徳ですか、てなもんです。誰しも被害者や加害者になり得ます。ホロコーストを描いた映画ばかり多すぎる、なんて穿った意見もありますが、そうした事柄を描きやすい世界共通の認識ってのがあって仕方ないとも思います。今作はナチによるホロコーストではなく、フランス当局によるものですのでちょっと変わり種とも言えるかと思います。
というわけで、過去の人物である少女サラに感情移入し「何とかなってくれー」と、泣きながら願いつつ、同じ感覚でいるジュリアにも感情移入してしまうというなかなかにのめり込み系のドラマで、観る人の心の中は胸騒ぎのざわつきでいっぱいいっぱいです。そういう映画でした。
広い範囲でお勧めできる作品です。今年6月にDVD発売されました。
追記というか、ちょっと内容に踏み込んだ部分の感想をFacebook MovieBooページのここに書いたので。
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