ちらりと見た予告編では、少女と少年の二人のちびっ子が屋根の上に座っておりまして、少女は天使のように可愛くて、少年はおっさん顔の超味わい深いいい顔をしております。「おとうとが」「生まれる」みたいな話をしておりまして、まあ何とよいカットなのでしょう。このシーンで「よし観た!」と、内容をよく知らずにタイトルだけ確認して飛びつきます。
「やがて来たる者へ」という、やや説教臭い邦題で、見終わった者としてはこの邦題の印象と映画の印象はとても遠いです。今日この記事を書くに当たっても「はて。やがて来たる者へ、って何の映画だっけ」と思ったりしました。あぁ、あれか、あの作品か、とすぐに思い出しましたが、どうもこないだ観たスサンネ・ビアの「未来を生きる君たちへ」と被ったりします。
原題は「L’uomo che verra」です。イタリア語のお勉強に挫折した私としてはこの意味すらわからないのが悔しい限りでして、「チャオ」と「ボノ」しかわかりません。というわけでgoogle翻訳機にかけてみるとあっさり「なる人」と出ます。なんのこっちゃ。ピリオドをつけると「男は誰でしょう」と出まして、ますます何のことかわかりません。まあでも「やがて来たる者へ」が、意味的に無茶苦茶遠いわけでもないかもね、つまり私たちに「これ見とけっ」と言ってるんでしょうか。と、やや納得して次ぎ行きましょう。
大所帯の農家で、最初はたくさんの人が出てきますからちょっとわけわかりませんが、とにかくイタリア北部の田舎のお話です。小さな村です。そして天使のような少女の独白です。お待ちかね、大好物のちびっ子映画ですよ、と、何も知らずにわくわくして見始めるんですね。
村の暮らしが淡々と映し出されます。不穏な空気も漂っています。第二次大戦末期で、ドイツ兵やパルチザンが蠢いています。ここでパルチザンの予習です。
パルチザンというのは外国の占領軍に抵抗する非正規の軍事活動をする人たちです。チーズのことではありません。いわゆるゲリラです。ゲリラとパルチザンの使い分けについてはよく知らなかったんですが、歴史上、一部の活動についてゲリラと呼ばずにパルチザンと呼ぶそうなんですね。「やがて来たる者へ」で描かれる「イタリア国内におけるファシズム体制への抵抗運動」もそのひとつだそうです。ですので、この映画ではゲリラと呼ばずにパルチザンと呼びます。
ドイツ兵がうろちょろし、パルチザンが抵抗を続ける田舎の山村です。ちびっ子マルティーナの目から見て、何がどうなってるのかよくわかりません。怖そうでもあり仲良くしている風にも見えます。
戦争の悲劇を子供の目線で語るのは悲劇性を強調する映画の昔からの定石です。そして定石といえど、その威力は全く衰えません。大抵は大変よく出来た映画であると思います。おいそれと軽い気持ちではこうした作品を作れないのか、本気度満点、作品ごとに特徴もあって、どれもこれも印象に残る深い出来映えです。
さて本作の少女マルティーナはただのちびっ子ではありません。まず口がきけません。弟が死んでからそうなりました。無邪気系ちびっ子ではなく、繊細で聡明なちびっ子です。マルティーナは口がきけませんがその分独白に力が入ります。なんという感受性の豊かな、賢いこどもなんでしょう。この賢さというのが重要です。賢いが為に映画を観る我々のある種のセンサーを直撃します。
弟を亡くしてから口がきけなくなりましたが母親が再び妊娠します。マルティーナは新しい子が生まれるのをわくわくして待ち望みます。ほらみろ。聡明でけなげな少女に加えて妊婦が出てきましたよ。赤ちゃんですよ。おなかが大きいんですよ。わくわくしてるんですよ。なのに社会の不穏な空気が日増しに強まり、1944年9月29日に始まるあの事件が起きようとしてるんですよ。これはひどい。そんなの聞いてない。そういう映画だと知らなかった。映画を観る我々のある種のセンサーを直撃します。
監督のジョルジョ・ディリッティはドキュメンタリーの出身で、「木靴の樹」のエルマンノ・オルミ監督と仕事をしてきた人だそうです。リアリズム重視派で、史実の再現にも力を込めています。キャストの多くが地元の非職業俳優だそうで、彼らの素朴な味わい深さの演出たるや憎々しいほどに上手です。その彼らの暮らしぶりが、牧歌的で暢気なだけじゃなく、生きる力に満ちた懸命さを伴って描かれるわけですが、私から言わせていただくならば、ジョルジョ・ディリッティ監督はリアリズム重視と同時に、とんでもないサディストです。
前半にどのように描けば後半に観客が辛くなるかを熟知した上で、最も効果的な攻撃を繰り出し、映画を観る我々の辛さセンサーを直撃します。監督、あんたひどすぎまっせ。どうやったら人が最も傷つくか、わかったうえでやってはりますやろ。ひどすぎる。ひどすぎる(号泣)
辛い思いをさせられて喜ぶ映画マゾの私どもですらあまりのことに身をよじるこの快感、否、この辛さ、こんな仕打ちを行えるとはとんだサディストです。しかしこの痛みを映画を通して人々に与える任務は、これは映画にとって重要であると言わずにおれません。歴史の事件を世界に知らしめる仕事はジャーナリストだけでなく芸術家の仕事でもあります。
素朴な村人の中に、ひときわ目を引くベニャミーナという女性がいます。ドイツ兵にも好かれているこのお嬢さんを演じているのは、この映画の中で数少ない有名女優アルバ・ロルヴァケルです。この人、いい感じだなあ、でも、どこかで会ったことがあるなあ、どこだっけ何だっけ、と思ってると、あっ、なんと「ボローニャの夕暮れ」の娘さんじゃありませんか。確かにあの子だわ。しかし全然印象の違う役割です。いやあ、やっぱり凄腕の女優は演技の力が伊達じゃありませんね。
で、このベニャミーナがですね、これまたこの映画中やや珍しいドラマチックなあるシークエンスで観客のある種センサーを直撃するわけですが、もうここまで来ると我々はすでに生ける屍です。
観る前はてっきり「不幸な時代を背景にした山村とちびっ子の牧歌的物語」と思って、心を清めようと見始めたこの映画、最後見終わって身動きが出来ないほど打ちのめされ、聞こえるのはすすり泣きと嗚咽であります。「ひどすぎる」少女の賢さがいつまでもいつまでも尾を引きます。
というわけで「やがて来たる者へ」は、超可愛い天使のような賢い少女の映画を見たい、あるいは、イタリア北部の山村の暮らしに触れたい、あるいは史実に忠実な事件映画を体験したい、またあるいは、身をよじるような辛い思いをしたい映画マゾのあなたへのお勧め。