テレンス・マリックは巨匠と呼ばれる巨匠でありまして、映画俳優たちからの尊敬もあついそうです。
かつて「シン・レッド・ライン」を観たときはそんなことつゆほども知らず「映像はきれいだなあ」とぼんやり思ってたぐらいの、この監督にあまり思い入れのない人間でございまして、ですので「ツリー・オブ・ライフ」は、カンヌでパルム・ドール受賞したと聞いて、それだけで観てみようかなと思っただけの、心真っ白鑑賞にて堪能しました。
内容はある家族のお話、悲しみから始まる非常に道徳的な物語です。
魂を闇で包まれ肺をタールで覆われたブラック人間の私なんぞは、敬虔なカトリック信者と聞くと「排他的で暴力的で非寛容で融通が利かず差別的で意地悪で悪の権化」などと思ってしまうのでして、それは普段どんな映画見とんねんという話なんでありますが、冒頭で道徳や寛容を説くお母さんの独白シーンでいきなり「ははあ。このような善い人仮面が後半地獄の死者になるのだな」と碌でもない想像をしてしまい、いやはや、おかあさん、たいへん申しわけありませんでした。愛と優しさと寛容に満ちたおかあさんでした。というか、この映画自体が愛と寛容に満ちた映画でございました。
さらに普通のホームドラマかと思ってたんですがいきなり宇宙規模の壮絶映像が繰り広げられたりして、めちゃめちゃ派手です。これにはおどろいた。最初はうねうねした抽象形態みたいなのが現れ、雲となり塵となり地球になります。綺麗です。昔、レーザリアムセンターというものがあって、レーザー光線を鑑賞するプラネタリウムみたいなアートショーなんですが、それを思い出しました。
さて「ツリー・オブ・ライフ」の壮絶映像は何なのかと言えば、生命の歴史、地球の呼吸、そういったものにまで思いをはせる肉親の死です。身近な死は人間を哲学者にします。今ここに生きていた事実は、宇宙に比べれば小さなことに違いない、されど脈々と連なる大いなる生命の歴史の一部であり、地球の一部であることもまた間違いないのである、といったふうです。さらに、宇宙と言えば多次元なわけですから、多次元を肯定すると時間はおろか生死の概念も超越します。あのとき生きていたあの子はつまり「あのとき」上では生きている、というような考えにも至ります。
身近な死を体験した人ならこういった考えに覚えがあるのではないでしょうか。
てなわけで壮大な宇宙映像には唐突な感じを受けませんし、何この映像意味不明、というようにも感じません。ただそれを映画化したことには驚きを感じます。
「まぼろし」という映画があって、普通の映画や普通の人生では一瞬のこととして通り過ぎていく喪失感や悲しみの瞬間を映画一本分の尺を使って描きました。
内容は全然似ていませんが「ツリー・オブ・ライフ」も同様、普段なら短時間で通り過ぎていく感情をうんと引き延ばして映画化したようなそういう感じを受けます。
やや抽象表現の多い「ツリー・オブ・ライフ」ですが、本編の軸となる家族の何年かの生活を描く部分は、時代背景もあってノスタルジー感に満ちていまして、移ろいで行く時代と価値観の中で揉まれる人間たちを上手に表現します。そのころの普遍的な昔の家族の有りようは、多くの人に「あるある」と言わしめ感情移入させるでしょう。
私なんかは三人兄弟の次男坊でしたので、この映画の次男坊とほんとに同じような感じで、むず痒い思いすらしました。父親に一言余計なことを言い放つところとか、あれなんか危機感のない次男の特性が良く出ています。危機感はないですが何も考えてないわけもはなく、彼の精神構造が手に取るようにわかります。そういや子供の頃は襖の閉め方で怒鳴られたりしたものですね。ね、とか言ってますがみんなもそうなのかどうかは知らない。
と、まあそんな感じで長男ぽい感じ、父親ぽい感じ、母親ぽい感じ、三男ぽい感じ、どれもこれも懐かしいばかりのぽい感じです。あれですね、ああいう感じは国籍よりも時代や社会というものが人間を作るという証左なんでしょうかね。アメリカの50年代は日本では60〜70年代あたりが環境似ていますからね。
「ツリー・オブ・ライフ」はこうしたドラマ部分も十分に面白いです。
映像が綺麗で抽象的な表現もあってドラマも優れていて徳や寛容といった良いテーマを嫌みなく描いていて一流役者も流石の演技でちびっ子は可愛いし時代背景もいい設定だし、どこをとってもいい出来で受賞も当然最高傑作。と、私が手放しに絶賛しているかというと実はそうでもなかったりします。
これは完全に好みの問題で、作品の出来不出来やましてや評価の上下などまったく無関係にあくまでも好き嫌い以前のもはやフィーリング(死語)の世界ですが、描く内容や描き方や何もかもが大好物のネタなのにいまいちピンと来ないのは「シン・レッド・ライン」を観たときと同じ印象です。あのときは若気の至りで良いものが見えていなかったからだと思っていましたがそれだけでもなかったようで。
例えば綺麗な映像一つ取っても、好きな映像なのですがずしんと響く強烈パンチほど好きでもないという、そんな感じです。ドラマやほかの部分もそうです。良いんですけど凄くなくて普通。と、失礼極まりなくそう思ってしまいます。こればかりはなぜそうなのか自分でもわかりませんで、逃げとして感性(死語)と言う以外ありません。ほんとうは自分ではある程度わかっていますが理由が作品ではなく個人の側にありますから書いても仕方がない。
ついでに言ってしまいますが、何が気に入らないって、この作品がパルムドールというのが意味わかりません。審査委員長はロバート・デ・ニーロですが、何やっとんねんデニやん。何でこれやねん。と、この年の他の名作傑作群(第64回カンヌwikipedia)を見て嘆きたくなります。
個人的尺度による嘆きは横に置いといて、この映画は愛や寛容をとても美しくわかりやすく表現していまして、観るものに優しさを植え付ける効果があると思います。けして押しつけがましくもなく、宗教色は強いものの宗教臭すぎると言うこともありませんから、普通に素直に観ればきっと優しさや愛に影響を受けると思います。ていうか、ぜひ受けてください。
私もがんばります。
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