隣の家の少女

The Girl Next Door
ジャック・ケッチャムが実話に基づいて創作した小説の映画化。両親を亡くして隣家に引き取られた姉妹、姉のメグに心ときめかす少年デヴィット、隣家では姉妹に対して虐待が行われてた・・
隣の家の少女

原作のさらに元になった事件は1965年にインディアナ州で起きたバニシェフスキー家の虐待で、この犯罪の恐ろしさは主犯でボスの母親の元、息子たちや近所の子供たちが面白がって犯行に荷担していたという事実です。リンチ事件や戦時の虐待など、日常では苛めや差別など、集団が関わる犯罪では常に同じ心理が働きます。人間の、か弱くも恐ろしい一面をあぶり出すんですね。

この映画の主人公はその「面白がって犯行に荷担していた近所の子」の一人です。おまけに、虐待を受ける少女に恋心を抱いています。どういう辛い物語が待ち受けているのでしょう。

さてこの映画ですが、インデペンデンスの小品にしてはがんばっています。ちゃんとした映画みたいに撮ろうとしていますし、ある程度はそれに成功しています。
が。歪んだメジャー指向が自滅を促してしまいました。
せっかくの良いテーマを、この作品はトンデモ方向にぶち壊してくれます。

まず中途半端なのは、ホラー映画みたいなくくりで残酷な話を描こうせず、背伸びしてドラマチックにしようとした点です。これが最初からホラーでゲテモノの映画として作っていれば少女虐待を楽しむ変態的な映画として成立していたと思います。
妙な色気を出して、まるで何かご大層なものを描こうとした気配があり、それが裏目に出ています。つまり集団による虐めと虐待をスカスカに描き、荷担した男にとって「思い出の一つ」みたいに処理してしまうんですね。

主人公のおっさんにとって、事件は「良い思い出」ですか。
「ありがとう、メグ。今でも傍にいる」ですか。アホかと。

結局、少年時代のおぞましい事件はただのほのぼのした思い出の一つとして、その後の人生に教訓を残し、それによってとても良い人になって人助けをしたりして、そんでもってウォールストリートの勝ち組エリートになれました。ちゃんちゃんです。何ですかこれ。

しかも、その少年時代、興味本位と性的抑圧と権威の支配下による虐待への荷担という最も重要な点が全く描かれておらず、彼は弱いながらもひたすらアメリカンヒーロー的に救うことを考える正義の少年として描かれてます。これでは反省も後悔も精神的外傷もないわいな。

主犯の母親役の女優さんはがんばってます。
が。
脚本書いたやつ誰やねん。ちょっと出てこんかい、と怒り発動です。
説明的にだらだらべらべらと喋らせて、せっかくの女優さんの演技も台無しです。そんでもって悪の象徴は煙草とビールですか。はいはい。煙草とビール、煙草とビール。よござんしたね。この脚本書いたやつは本気の阿呆でしょう。
で、この母親の異常性や葛藤は煙草とビール以外に全く表現されません。ただの類型的半ば自動化された漫画的悪者です。なんという単純化。

さらにこのおばはんの息子たち。なんとも可哀想な子役たちにも、何の個性もありません。さらに近所の子たちに至っては、ただそこにいるだけの木偶の坊です。この事件の最も重要でおぞましい部分を省略しているんですね。主人公の両親なんか見る陰もありません。役者さんに心の底から同情します。

最も可哀想なのは被害者姉妹役の少女たちですよ。一所懸命、身体を張って演技したのに、まったく報われません。

結局ほんとのところをいうとこの映画がやりたかったのは少女に対する虐待を映像化することで、子役の少女に辛い演技をさせることだけが目的だったんじゃないのかと思えてきます。

この映画を観て最も戦慄したのは、このような脚本で映画を撮った製作陣の姿勢に対してです。

というわけで、偽善者の装いをした変態映画は嫌いなのでついうっかり怒りが発動してしまいました。

2010.09.11

さてちょっとだけ時が流れ、同じ事件を題材にしたもう一本の映画「アメリカン・クライム」をポストしたのでこちらでも言及しておきます。
どういうわけか同じ2007年の同じ内容の映画ですが、こちら「隣の家の少女」が残虐シーンだけを目的とした馬鹿映画なのに対して、「アメリカン・クライム」は犯罪をより丁寧に映画いている良作です。
「隣の家の少女」に興味がある人なら「アメリカン・クライム」も是非どうぞ。映画的には「アメリカン・クライム」こそ観る価値があります。

2011.09.25

 

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