スリコンです
「チャイルドコール」を一言で説明するとスリコンです。たくさんのネタを詰め込みまくった複合的スリラー、スリラー・コンプレックス略してスリコン。スペイン映画を観たときなんかによく感じる作風です。
大抵のスリコンは「詰め込みすぎてサービス精神たっぷり、ごちゃごちゃして楽しめるけど大体はまあそれなりかな、でも好き」みたいな感想を持つことが多いです。
でも「チャイルドコール」はスリコンはスリコンでもちょっと違います。これはかなりいいです。
まず観ている最中ですが、これがメタクソおもろい。なんせ複合的にネタが散りばめられ、ああなるのか、こうなるのか、あれ系なのか、これ系なのか、想像が果てしなく広がり、そして細かいシーンもとてもよくできているので前のめりで食いつきます。撮り方や台詞回しもとてもよいです。一級の文芸系作品に一歩も引けを取りません。
単なるどんでん返しの色物スリラーではない
で、スリラーですから最後にはオチがやってきます。
いろんなネタを伏線として放り出したあと、最後は何かどこかでオチを付けねばなりませんから、言わば集束です。この集束によって限りなく広がった想像がまとめられてしまいますから、一瞬のがっかり感というか、落ち着いてしまった感がやってきます。
「ちょっと急いだか」「これをオチにしたのか」と、本編最中の面白さに比べてちょっと弱さを感じたりします。
単純な見方をする人ならオチに関する「またこんなのか」の感想でとどまってしまうかもしれません。本編を楽しんでいないのなら「よくあるネタ」と一蹴するかもしれません。しかしそんなふうに思うには残念すぎる良さがこの映画には潜んでいます。
細かいところがとても丁寧で、この細かいところが全体のテーマも浮かび上がらせます。一見、どんでん返しのスリラー的オチに見えた事柄が、そんな単純なものじゃないということがわかります。
観るほうも細心の注意を払って観なければなりません。
細かいいいところを具体的に書くとネタバレしすぎになるので難しいところですが、具体的に書かねば何がどういいのか伝わりにくいのもあって、どうしましょ。
冒頭やイントロダクション的にはこうです。
DV夫から逃げた母子です。ソーシャルワーカーみたいな人達以外に他との接触がありません。母は神経過敏です。そしてベイビーコールから不審な声が聞こえます。
映画の進行と共に、観客は大体以下のようなジャンルを感じ取れるようにリードされます。
1 クライムサスペンス
2 サイコスリラー
3 ゴーストホラー
4 タイムスリップ
5 トラウマ系ドメスティックドラマ
6 児童虐待と精神障害
7 超能力
8 母の愛と執念
一体全体、この映画はどれなんだい、と。でもね、全部そうなんです。全部入っていると言っても過言ではありません。
複合を同時に多重に描く構造
この映画が挑戦した新しい試みは、映画内で同時発生する複数の出来事がただのスリラーにとどまらずジャンルを超えている点と、ある同じ事象が別ジャンルのストーリーとして多重の解釈を成り立たせる点にあります。登場人物の深みも並以上です。
一例:叙述トリック
複数の異ジャンルテーマを同時に散りばめた面白さは格別で、そのための技法として一つ例を挙げると叙述トリックによるまやかしと、そのまやかしを利用した効果というのがあったりします。
母親目線と他人目線のバランスです。
母親目線は、いわば信頼の置けない語り手です。で、時々第三者の目線も登場します。観客は第三者たる電器屋の登場にほっとしたりします。
でもそこでまた罠を貼ります。
電器屋が信頼できるのかというと、彼にもいろんな事情があって、単に目線違いではない、別ジャンルのネタを今度はこっちにも仕込んでいたりします。
ソーシャルワーカー的な担当者もそうです。最初ただの担当者で、いわば現実世界の信頼できる登場人物です。でも途中からちょっと変です。後半もっと変です。最後は完全に混ざっています。最後まで見たあと最初から思い返すと、練りに練ったセリフ回しが用意されていることに感心するでしょう。
「チャイルドコール」のコンプレックスは、ただテーマやネタの複合という意味にとどまらず、複数の出来事・非出来事、複数目線の叙述トリック、複数の妄想が折り重なっているように見える点が面白く、新しいところです。
偶然キャッチする近隣の犯罪を扱うクライムサスペンスと狂人の妄想と幽霊話と母親の愛と執念とタイムスリップとジャンキー映画さながら虚と実の融合を並列に描くという思い切った世界で、はっきりいってここまでのスリコンはちょっと他に例が見つかりません。
複合の中に貫く芯のテーマ
まだあります。
「チャイルドコール」の散乱した複数のテーマやネタや物語、これらばらばらのスリコンを実のところ、ある一つの事柄だけに収束させていることを発見できます。
それは何でしょう。
それは主人公女性の苦悩です。
「そんなんあたりまえやん最初からわかりすぎやろ」ですが、これが結局一周回って帰結していくわけなんですよ。
いろんなネタ、いろんな複合テーマ、いろんなジャンル、いろんな事件や事象や妄想、それらはすべてある女性の心の奥底へ向かう悲哀の精神分析ストーリーとなっています。
一例:リビドーと罪悪感
例えばですね、電器屋の写真を冷蔵庫に貼るシーンありましたね。子供がそれを見て「誰だよこの男」と写真を引っぺがします。その後、実の父親の写真をベッドの横に貼っているのを見て今度は母親がその写真を引っぺがします。
このシーンにおける主人公女性の性的な葛藤は、後にある男とのエピソードでより明確に表現されます。「独り身だと寂しいだろ」と変態的に迫ってこられる危機のシーンです。
さらにこの映画内でヒントが散りばめられているように、虐待についての大きな罪悪感を持っていることも重要です。
妄想や幽霊に紛れて、その実描いているのはきわめて真っ当なフロイト的なリビドーと願望と罪悪感です。
登場人物が混ざり合い、置き換え合う
とても重要な登場人物である電器屋の果たす役割の大きさにも注目です。
叙述トリックにおける第三者の目という点以外に、電器屋の役割の大きさはラストシーンでも明らかです。この映画は全体を通して、異ジャンルの多重構造を作り出していると同時に、登場人物の設定にも多重の構造を作り出しています。
最も強く感じるのが、物語的にこの電器屋は主人公女性であったり息子であったり息子の友人であったりする点です。この映画では登場人物の入れ替えが頻繁に起こっています。母子が湖に行くシーンが何度も登場しますが、その最後のシーンがとても複合的な構図で、この最後の母子が誰なのかという、表面的には主人公母子ですが意味的には電器屋親子かもしれず、また、それを遠くから見つめている目線(以前は主人公女性の目線)が電器屋の目線であったりします。
参考:脱走と追跡のサンバ
同一世界内で異世界を感じて、お互いがその世界から脱走を図るべく奔走するすぐれたSF小説がありました。その小説では後半に登場人物が容易に入れ替わり混ざり合います。脱走者と追跡者が同一人物になったり親子になったり職業適性所の所長になったりイド時計店の店主になったりボート屋になったり母親になったり息子になったりします。あれと同じようなことを「チャイルドコール」では注意深い技法で描いています。
役者さん監督さん音楽家さん
さて、脚本的にも演技的にも素晴らしかった電器屋ですが、これを演じたのはクリストッフェル・ヨーネルです。映画を観ている最中は気づきもしませんでしたが、「孤島の王」の寮長です!ワオ!
「孤島の王」を見たとき、悪役ながら味わいが深すぎて印象に残り、普段女優のことしか興味ないのにこの方に関しては写真まで含ませて載せてしまったという、強く印象に残った役者さんでした。今回のこの役も素晴らしすぎてたいへんです。
主人公女性はノオミ・ラパスで、この作品は彼女がハリウッドに出向く直前の映画となります。ニューウェーブ風ハッカーの役も変な宇宙服の人も、どちらもぜんぜん合ってなくて疑問符付きまくりでしたが、今作の貧相でくたびれてやつれた姿はほんとぴったりでした。
脚本と監督のポール・シュレットアウネ作品はこの「チャイルドコール」とさらに数年前の「隣人」がなぜか2013年に日本で公開されるという、何ででしょうね。「チャイルドコール」がこれほどの傑作と思いもしなかったのでこれは「隣人」にも期待。大都会東京では今年の春先、田舎町京都では今頃公開しております。
音楽のフェルナンド・ベラスケスはスペイン映画の音楽でお馴染み、好きな映画の音楽を多く担当しています。最近では「インポッシブル」もこの方ですね。
「チャイルドコール」も上品でとてもよい音楽がついておりました。
【追記】
今知りましたが、この映画の公式サイトに、映画評論家による詳細なネタバレと解説が載っていました。一部に「隣人」のネタバレも含みますから注意が必要ですが、この映画を見終わった人が堪能できる内容になっています。見終わった方で興味ある方には読み応えありますよ。
単純な見方をする人の揶揄として「また○○系かよ」との声も聞こえてきそうな本作、たしかにかの映画のような綿密さに満ちているようです。色のこととか。ですが実のところテクニカルな部分よりも悲哀のドラマに重きを置いている点こそが共通しているかもしれませんですね。
公式サイト内 評論家ダグ・セーソルト(Dag Sodtholt)による徹底解釈 「隣人」のネタバレも含まれるので読まれる際には十分ご注意を!
[追記]せっかくいい記事が載ってたのに上記公式サイトはすでに消されてしまった模様です。